ぐれーとふる365 

子供の読書成長記録(洋書和書)多読というらしいですが、語数はカウントしてません。

欲しいのは話し相手って、そうかもな

先日SNSで友人の投稿にふと目がとまった。

今一番欲しいものは何と聞かれたら、話し相手である、と綴られていた。友人のご主人は単身赴任中、家庭での話し相手は小学生の息子、近所に住む義母、そして転職した職場の同僚とごく限られた数名に限定されている、とにかく会話に飢えている、転職したいと心情が吐露されていた。友人とは以前職場で営業職として一緒に働いており、本当に話すことが好きなにぎやかな人で、周りが呆れるほどだった。その彼女が話し相手が欲しいというのはさぞ切実なことなのだと想像がつく。

 

そのときに気づいた。私は友人以上に閉鎖的な生活をしているではないか。

ファミリービジネスの在宅勤務でいつも一緒の夫とこどもしか話す相手がいないことを改めて危機感を抱いた。いざ話したい、と思っても連絡をとれるような友人がひとりもいないのだ。非社交的な私は友人ほど会話に渇望を感じていないが、でもこの状況はあまりにも不健全ではないか。これから先ずっとこの調子で暮らして行くのか。夫は自らそれを望んでいる節があるが、でも私はそれでいいのか。考えると恐ろしくなってきた。とりあえず、舞い込んだパーティーのお誘いを受けることに決めた。よく知らない人たちの集まりは、常に気が進まないので、いつもなら即お断りさせていただくのだが、友人の心のメッセージを見た後、せっかく機会があるなら行くべきだという気がした。この手のパーティーは行っても楽しいわけでもない。昔は新しい、楽しいことがあるかも、と思って軒並み出かけた。でもそんな簡単に楽しいことと出くわさない。新しい人と出会っても、それは新しい友達の出会い発展していくことはそうそうないことを経験してきてきた。所在がなかったり、その場だけの上澄みな会話を繰り返し交わすことに疲れることが多い。それは、私の社交性のせいかもしれないけれど。とにかく回数を重ねて、社交の場になにかを期待するような年ではなくなった。変化を期待してはいけないのだ。でも変化が無くても、いったほうがよい、と私自身の声が聞こえた。私の中の変化を起こすきっかけになるかも、しれない。

そのプール15メートルだったはず

こどものスイミングレッスンのバッジウィークだった。

到達度チェックなわけだが、10週ごとに行われ、その後先生から3ポンド払って証書を買ってくださいという紙切れを渡される。うちの子は2年以上スイミングレッスンを続けているが、この証書を買ったことは一度もない。3ポンドを払いたくないし、なにより10メートル泳げましたという証書をありがたがってどうする、である。我が家では証書の代わりに、クラスが昇級した時は3−5ポンド程度のおもちゃを買うことにしている。証書はせめて25メートル泳げるようになったら買うか考えるわ、とこどもには伝えている。ちなみに、このバッジウィークはすべての習い物につきものである。誰が買うねんな、と思うが、どっこい、褒める・褒められ好きの親とこどもたちから手堅く集金できるシステムとして確立している。こどもが通っていた幼稚園では証書を持っていくとその週のニュースレターに写真掲載されるため、親たちはこぞって証書を買うのである。

 

さて、この日受け取った紙切れを見て、思わず目を見張った。そこには50メートルの証書を買えと書かれていたからだ。当初の目標25メートルを超えて50メートル泳げるようになったのなら、それは素晴らしいことである。でも。。。このレッスン用のプール、とても小さいのである。20メートルかと思いきやなんと15メートルであった。このプールでどうやって50メートルを計測できたのだろうか。2往復して50メートルにカウントしてるのだろうけど。。。ターンを知らんこどもの2往復を50メートルてカウントしていいのだろうか。。。これにはこども自身も驚いていて、その日の日記には、スリップは間違っているのかと思った、本当なら、とてもうれしい。と綴られてた。

こんな証書はやっぱり不要である。

学校の行事から知る歌謡曲

 

学校の発表会で披露したダンス曲はTake That のRelight my fireであった。発表テーマ The great fire of London だったので、「火」をキーワードに選んだのだろう。6歳児のお遊戯ダンスになんでこんな微妙な曲なんだろうか。ダンスしづらそうやと思ったのは私だけなんかな。いつも思うけど、学校では子供にふさわしい曲とかそういう意識はないんやろうなとおもう。音楽に疎い私には、流行った曲を知れる機会になっているけど。

Relight my fire, your love is my only desire
Relight my fire, 'cause I need your love

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これも子供に教えてもらった。Little Mix Black Magic

スクールディスコの定番曲らしい。ディスコにぴったりの曲とおもうけど、恋愛の歌詞を書き写す子供をみると複雑であるが、学校推奨曲?であるため、横槍をいれることもできず見守っております。

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いるだけで 可愛かったは もう昔

子供の学校の発表会があった。

今期の学習発表、歌、そしてダンスという内容だった。学習発表はクラス全員一人一人に役割を与えられていた。2年生にもなると、みんな自分のセリフをしっかり暗唱できていた。去年は自分のセリフをまともに言えない子供はすくなくなかったように思う。発表する姿は堂々として成長を感じる。しかし、一方で、歌とダンスはあまりにお粗末な代物であった。ぱっとしない曲の選択が悪いんちゃうかと思うが、それよりなにより練習不足だろう。たいしたダンスの振り付けではないのに、まったく統一感がない。歌は輪唱だったが、そのようには聞こえなかった。どうして学校はもっと完成度を求めないのか不思議である。こんなものを保護者に見せて恥ずかしくないのかと思うが、保護者は皆大喜びで、嬉しそうに賞賛の声をあげ、ビデオや写真を撮るのに忙しい。あんな発表会は見る価値がないと、欠席した夫に見せるために、最初はビデオを撮っていたのだけど、お粗末なダンスは見るに忍びなく途中で撮影をやめた。昔はみんなまだ体に大きな制服を着て並んで立っているだけで、可愛かった。親たちはキャアキャアいいながら大喜びだった。その子供たちはぐんと背が伸び歯抜けになった口をあけて歌っている。2年前とは違うのである。子供達の成長にあわせてもう少し発表内容も成長するべきと思わずにはいられない。

親たちと知り合う努力もうやめた

子供の学校の発表会だった。

給食を親も一緒に食べて、その後子供たちの発表を見学するという内容。思った以上に保護者の参加率は高く、席が足りないかというほどだった。しかし、私は隣に座った1組の親と軽い会話を交わしただけで、我が子のの友だちの母親たちとは挨拶すらろくに交わさなかった。以前ならそれを気にしていたのだが、なんとも思っていない自分がいることに少し驚いた。

 

今までの幼稚園、前の学校とフレンドリーな親たちが多かった。だから、この学校に移ってきて、親同士の関わりがあまりに少ないことに少し驚いた。忙しい親も多く、毎日の送迎時に顔を合わす機会がなかったりする。だから、学校行事はそういう親たちと顔を合わせる貴重な機会で、少しでも近づけたらと思っていた。でもいつも空回り。誕生日パーティーを開いたら、少しは変わるかと思ったけど、なにひとつ変わらなかった。私のような言葉ままならない、気の利いたことを言えない外国人と関わりたくないのだろうと思う。親同士言葉を交わす機会がないたびに、私の社交性のなさを嘆き、それが我が子の社交にも影を落とすことを申し訳なく思っていた。でも、クラス替えもなく3年目を迎え、今は開き直っている。

我が子が一番仲良しの友達の親は他の親とのソーシャルにだれより熱心なのだが、彼女の視界に私が入ることはほぼない。それがいつも少なからずショックだった。今日もあえて私の近くの席を避けたように思う。いつもなら、また落ち込むところなのだけど、今日は驚くほど気にならなかった。そういう人なのだなと思ったら、気にならなくなったのだ。そして自分の子供との時間に集中した。発表会のとき私の隣に座ったのは、子供の誕生日パーティーに招待したとき返事すらよこさなかった母親だった。以前の私なら、それでも挨拶の声をかけたと思う。でも、今はそんな非礼をする親とは知り合いたくもない。以前の私なら、子供の友人の親全員に挨拶するまで、場を去ろうとしなかった。でも、相手はいつだってそんな風に思っていない。挨拶するのは、目の前にいたときだけ。私はいつも他の親の背中が振り向かないか、追いかけていた。子供の友達の親と少しでも知り合いたかったから。でも、そういうのはもうやめた。子供たちがホールを立ち去るのを見届けて、足早に会場を去った。正直、今まで幼稚園や前の学校のときのように親同士の関係を築けないのは寂しい。でも、そんなことにこだわっていても仕方ない。学校は子供のいるところ。私は関係ない。

立つ人にそっと差し入れ風が吹く

ある日のソープドラマ。生活保護で生活をする大家族の生活を支える長男。気になる彼女をデートに誘いたいのにパブに誘うお金すらない。彼女をデートに誘うお金のため臨時バイトで高額日当を得るものの、そのお金はまたたくまに家族のために消えてゆく。がっくりする彼の前にホームレスが現れて、手元に残ったの最後の5ポンド札をホームレスの差し出す缶にそっと入れる。その光景を彼女が見ていた。「善い行いをしたわね。彼に気を止める人は誰もいなかったわ。」

 

働かないだらしない母親に代わり、一家を支えるべく仕事を必死に探している青年は、掲示板の使用料1ポンド払うのを躊躇するくらいお金に困窮している。その彼がホームレスに5ポンド渡すというのは「ないない」設定で、ドラマの作り話として気にもとめず見ていた。

 

私の近所のスーパーの前には小銭をいれる缶の前にして座っている人たちを常時数人見かける。中には親しげに声をかけてくるひともいるが、相手の目を見て挨拶を返したことはない。それはもう私の中であたりまえの景色となってる。

昨日、ちょうどスーパーから出てきた女性が、この店の前に立ってビッグイシューを売っているムスリムの女性にそっとサンドイッチとボトルの水を渡す姿が目に入った。それはとてもさりげない行為だった。彼女は一声かけて渡すとすぐに立ち去っていった。その瞬間私の中を風が吹気抜けた気がした。サンドイッチをを渡した女性は、この店周辺でみかけるアジア系女性だった。声を交わすことはないが、なんとなく私の中で気になる人だった。裕福そうにはとてもみえない彼女が、その立っている女性のために買い求めたものを渡す行為、それは、自分が善行をしてるというような意識はまるでない、ごくあたりまえのことをしているように私の目に映った。この店はあまり良いエリアといえない場所にあるが、店内におかれたフードバングのカゴはいつもいっぱい。本当に困窮した時に助けを差し出してくれたのは、経済的に成功してるエリート大学時代の友人たちではなく、近所に住む裕福といえない移民の人たちだった、とか、高級車に乗り回す保護者がたくさんいる学校なのに、学校主催のチャリティに協力する人がとても少ない、などといった類の話を思い出した。裕福なエリアの店のフードバンクのカゴがこの店のカゴの量に勝るとも限らないのだろう。

 

私はあまりチャリティに関心が高くない。まわってきたものには参加するけど、自ら積極的に行うことは、ない。知り合いから回ってくるスポンサーシップのチャリティなど、あまり頻繁に回ってきて時に辟易することもしばしば。疑問に思うことも多々有る。でも今回、彼女の行為をまのあたりにして、私のみる風景が少し変わる気がする。

 

 

 

 

 

返答に迷う会話も増えてくる

「Jくんの家にいる女の人いるの知ってる?あの人ステップマザーなんだって。」子供の言葉に一瞬思考がとまった。

Jくんは近所の男の子。知り合って間もないけれど、好きなものが共通していることで意気投合し、あっという間に仲良くなった。あの人、というのは、Jくんが一緒に住んでいる女性のことで、Jくんのお母さんのパートナーである。

 

「え。。。。ステップマザー?Jくんの家族ってことは知ってるよ。あなたがきいたの?」

「うん。あの人だれってきいたら、Jくんがステップマザーみたいなもの、っていったの。おかしいよね、お母さんがいるのにステップマザーがいるって。Jくんのお父さんはどうしたんだろうね?」

 

腑に落ちない風であった。

いま、ゲイカップルについて説明するときなのかな?

 

ゲイカップルは珍しくない。公園を散歩すれば、子連れのゲイカップルらしいひとたちと何組もすれ違う。私の身内にもゲイはいるし、ゲイってなに?と尋ねられれば、子供に説明できるつもりだった。

でも子供の言葉には、とつぜんカウンターパンチを浴びたような、かんじ。

 

Jくんのお母さんとは共通の友人を介して何年も前から知っている。その女性と一緒のことが多いけど、私自身当初、ふたりがカップルだと気づかなかった。Jくんはふたりの養子ではなく、お母さんの実子である。私の中では、同性に恋愛感情を抱くひとたちは物心ついたときから自然とそうなのであって、異性と恋愛し、子供をふたり産んだ後(Jくんには3歳上のお兄さんがいる)、同性へ気持ちが生まれるもしくは気づくことがあるという考えがなかったので、ふたりのことも同居している姉妹か従姉妹だと思っていたのだ。ふたりがカップルだということはその後知ることが、何年も前のこと。今では当たり前すぎることになっていて、子供から聞かれるということを思いもつかなかったからだ。

 

ステップマザーは、我が子にとってはまだあまり馴染みのない言葉である。実は、ステップマザーとは何か。と昨夜聞かれたばかりだったのだ。そのときの会話からすると、Jくんの家の女性がステップマザーであるという説明ができないのである。でも、Jくん本人がステップマザーみたいなもの、といっているのだから、それと私が違うことをいうのは不自然だと思った。

 

「あの人はJくんの家族だよ。Jくんのところはお父さんがいないけど、お母さんが二人いるんだよ。いろんな家族があるんだよ。」と返事して、ゲイについては今回は触れないことにした。これで良かったのかわからない。でもJくん自身が自分の言葉で説明したことを大切にしたいと思った。Jくんと友達関係が続けば、我が子もJくんの家族の在り方に気づくだろう。いままではなんでも親子一緒に見聞き体験していて、子供の小さな世界は私が知っている世界だった。でも、いま子供は自分の社会を、私の知らない世界をを少しずつすすんでいってるのだなあ。ちょっとしんみりとした夜である。